昭和43年8月19日 夜の御理解



人間は、えー、生身を持っておりますから、いつ、どのようなことに出会うやら分かりません。えー、本当に、夢のような、あー、出来事が、突発的に起こりましたり、えー、または、あー、自分では、自分の心のなかに、いー、動いておる心、こころ、感情というものを、自分ではどうにも出来ない時がある。それは、生身でありますから、様々な時がございます。今日、あの、新聞を見ますと、何処で、何処でしたかねえ。えー、バスが二台、あの、転落して、濁流にのまれて、ほとんどが、いわば、百人近くの方が亡くなっておるだろうという、その確実な、あー、亡くなられた方だけでも、何十人かということだそうですが、本当に、まあ、レクレーションだったでしょうけれども、楽しい、例えば、旅行がもう、一遍にして、悲しい、本当にあの、地獄のようなことであっただろうと思いますね。そのようなことが、もう、あっという間にその、起きてきた。人間ではどうにも、それを防ぎようがない。どうにも出来ないことが起こったり、または、自分自身のことでもです。自分では、どうにも出来ない感情。これは、反対に、よう考えると、有難いことだとか、お礼を申し上げなければならないことだと分かっておりながら、どうにも出来ない、寂しくなったり、悲しくなったり、または、腹立たしくなったりするようなことがございます。ね。ですから、私どもが、本当に、おかげを頂かせて頂くために、私共には、どうにも出来ない、一つの、運命といったような、ね。もう、どうにも出来ない、そういうような運命的なものでもです、私共の心が、自分じゃ、どうにも出来ない、というような時にです。それを、有難いほうへ、有難いほうへと頂いていく、精進努力という事がです。私は、そういう難儀から、救われる、まあ、唯一の道ではなかろうかと、ね。私どもの前には、いつ、どのようなことが、まあ、起きてこんとも限らないけれども、そういう、例えば、事をです。例えば、未然に防ぐものは、自分の心の中に頂いておる、ね。和らぎ喜ぶ心といったような心を、絶えず、いつも求めて信心させて頂いていくというところにです。そこから、有難い運命というかね。いわば、災難、かかって来よっても、その、災難をよけさせて頂けれるようなお繰り合わせを、そこから頂けるのじゃなかろうかとこう思うのです。それでも、やはり、自分自身の心の中に、それは、有難い、お礼申し上げねばならんようなことでもです。ね。自分では、どうにも出来ないというのが、人間の、これがまあ、実相、実際の姿である。そこで、神様におすがりをする、心を神様に向けて、修行させて頂くというところに、信心がある。ただ、有難い時だけが信心ではない。頼む時だけが信心ではない。自分の心のなかに、どうにもできない、いわゆる、和らぎ喜ぶ心とは、似ても似つかない心が起きてくるような時にです、それを、思い通わせてもらう、有難くならせて頂こうとする精進が必要である。ね。それが、次の、私は、運命をですね、変えていくところのおかげが頂けると思うです。
今日、んー、小倉の、富永さん、先日、御大祭から、まだ、今日までおられたのかと思っとったら、あの日、帰られてから、きょうまた、改めてお参りをしてきておられる。それが、親戚の、いろんなことやら、問題があって、えー、本当に、良く考えてみると、考えてみるほど、お礼を申し上げねばならんということが、分かっておりながら、どうにも出来なくて、もう、それが、淋しゅうなったり、悲しゅうなったりして、自分では、どうにも出来ん。そこで、あのー、こういう時には一つ、心を、合楽のほうへ向けなければならんというので、小倉から、わざわざその、合楽参りを、今日なさっておられる。ね。そして、えー、汽車に乗られたところが、その、自分の隣にですね、もう、それっこそ、まあ、みすぼらしいというか、汚いというか、汚い服を着た、その、男の方が乗って見えて、横に掛けられたと言う。以前の私だったら、直ぐ、立ち上がって、他ん所へ席を替えたであろうけれどもです、ね。んん、考えてみると、おー、この人もやはり、神様の氏子である。ただ、えー、衣装やら、器量やらだけで、その人を、おー、定めるということはいけない。人を軽うみな、軽う見たらおかげはないと仰るのである。その人の中の、神性というかね、神様の性というものを、見ろうという気持ちで、一生懸命努めさせて頂いたら、小倉から乗らせて頂いてもう、二つ、三つ行きますと、もう、直ぐ満員になってしまうんですね。そして、いっぱいにならせて頂いたら、丁度、そこに、あの、子供さんを連れられた婦人の方が乗ってきた。そしたら、その方が一番に立たれてから、どうぞここにお掛け下さいと言うてから、席を譲られた時にです。はー、この人には、見かけはね、このように、まあ、汚い格好をしておられるけれども、このひとには、こういう素晴らしい、神心というか、親切な心があられる方であった。ようも、それを、悪く思わなかったり、自分が席を変えんでよかった、と思わせていただいたら、もう、本当に、心が有難う、今まで、どうにも出来なかった心が、有難うなったとこういうのです。ね。近所には、若い人たちが幾らも乗っておった。席を譲ろうと思や、みんな、そこの人たちが譲れれるような人たちが乗っていたけれども、結局、立ち上がって譲ったのは、自分の横に掛けておられた、その、汚い格好をした人であったと、こう言うのである。ね。この人が、心の中に、そういう錦を着ておるような、形には、ボロをまとうておられるけれども、心は錦のような方だと思うたら、ようも、自分が、この人を、爪弾きしなかったという事が有難くなった。いままで、どうにも出来なかった心が、一遍に、それこそ、涙が流れるほど有難うなってきた。それから、その、その人が席を譲られた前の方が、あー、その横の方が、横にかけられたその婦人というのが、あー、子供さんを、三つ、四つぐらいの感じの子供さんを連れて乗られた。それが、とってもかわいい顔をしておられるけれども、靴が脱げても、靴が脱げたことが分からない。どうも、身体がぐにゃぐにゃしておりなさる。はー、この人は、小児麻痺だなと思うた。そしたらまた、有難うなってきた。世の中には、不幸せな人が沢山おるんだと。このように、自分はおかげを頂いておるということ。気の毒だと、こう思わせていただいた。お母さんはもう、暑いのに、その子供を一生懸命足を擦ったり、手を擦ったりしておられて、もう、涙をいっぱい目にためてですね。その何か、時々物思いにふけられるのを見ていてから、自分も可笑しいぐらいに、何か、同情涙とでも申しましょうか、涙がこぼれてきた。そういう心が、その婦人に通じたのであろうか。あの、どちらまでおいでですかと言うて、向こうの婦人が声掛けられた。私は、あの久留米までですとこう言うた。実は、私も久留米まででございます。このこを久留米の、ゆうかり学園というのがありますそうですね。ああいう、小児麻痺の子供を預かるところが。そこに、この、お盆で歩きにきとりました。もう、こんなにしとりますけど、七つにもなります。それが、本人が帰らないというのをです、どうでも、帰らなければ良くならんからねと言うて、こうやって連れて帰りよりますけども、もう、親として、不憫で不憫でたまりませんといって泣かれた。もう、それを聞かせてもらいよっても、その人のことを一生懸命、その親子のことを祈らせて頂きよったら、もう、有難いものは、もう、とにかく、どうにも出来んほどの有り難さになってきたと、こう言われる。先生、それからがまたおかげでございますと、こういいますよね。
久留米に、野口つぁんが里ですから、家に帰らせていただいたら、えー、ちょっとした問題があって、えー、その、ま、いわゆる、難儀な問題がありますね。それでその、自分が、どうにも出来なかったその、心の状態を、心を合楽に向けさせて頂いたら、ね。次々と神様は、私の心を、嫌が上にも有難うして下さるような事柄を持って、おかげ下さる。ね。だから、自分の心が、どうにも出来ない、やる瀬がないというような心をです、そのまま、放任しておったら、どういう事になってくるやら分からん。そういう心が、どういう災難を呼ぶやら分からない。ね。富永さんが思われたことは、はー、自分が、こういうような、本当言うたら、お礼を申し上げなければならないような時に、こういうような心の状態であっては、自分はよいけれども、ね。ご主人は、あー、お医者さんですから、出張なんかで、自動車で出ておられるんですよねえ。それで、ああいうその、おー、言うなら、毎日危険な交通地獄と言われるような中に、出ておられるご主人が、自分の、こういうような気持ちが主人の上に、どういう災難になって、起こってこんとも限らん。こげなことじゃあいかんから、心を合楽に向けさせて頂いてというところがね、おかげをいただくもとだと。ね。そんな気持ちで汽車に乗らせて頂いたら、こういう体験を頂いた。次にはこういう体験を頂いたと言うて、もう自分が頂いておる、喜びの涙を、いっぱい、その、流しながら、お話させて頂いたらもう、家中のものがもらい泣きをした。家中のものが、その、もらい泣きというよりも、有りがた涙に暮れたと、こういうわけである。ほうら、美子姉ちゃんがいう事を聞いてみなさい、もう、こげんおかげの頂けれるとを、私どんが、ガチャガチャ言うてから、どうしたことかと、もう言わんでも済むくらいに、みんながおかげを頂いたと言うて、野口さんと二人で、今日はお礼に出てこられました。ね。自分の心を、有難いほうへ、有難いほうへと向けようとする精進が必要なんです。人間は、自分ではどうにも出来ないもの。ね。はー、いっちょ、有難くなろうと思うても、有り難くなれるどころか、反対に腹が立ったり、淋しゅうなったりするような事がある。こういうことではです、どういう災難を招くようなことになるやら分からん。自分は、家におっていいのだけれども、外に自動車で出ておられるご主人の上に、どういう災難がかかってこんとも限らない。こんなことでは、相すまんことになると思うて、わざわざ、小倉から、合楽のほうへ、昨日、一昨日、大祭でおかげを受けたばっかりだけれども、また、合楽のほうへ心を向けてきた。向けさせて頂いたら、もう、神様の働きがです。有難うならせて頂くような雰囲気の中に、汽車の中でのおかげを頂いておられる。その、有難いものがです。ちょうど、ね。色々と、まあ、家庭的な難儀な問題で、その、ガチャガチャ言いよるところへです、自分が帰ってきて、その道中の話させて頂いただけで、家中のものが有難うなってきた、というのである。ね。喜びといい、心を神様に向けるというか、ね。そこから、次々と有難いことになってくる。心の状態が有難いことになってくる。その有難い状態が、そういうおかげに繋がっていく。そしてから、今日の、今朝の御理解をまた頂きながら、また尚、有難かった。ちょうど、今日、私が、汽車の中で体験したような事柄が、今朝のご理解のテーマであったからである。ね。
信心するなら人を軽う見てはならない。ね。軽うみたら、おかげはないと仰る。ね。だから、もういよいよ、この人、こういう人は、人は爪弾きをするというような人でもです、こちらが、それを大事に扱わせて頂くということの、ま、例話に、あの、光明皇后のお話が今朝、頂いておりました。ね。奈良の、奈良朝の、奈良に都のある時分のお話なんです。ね。たいへん、情け深い皇后様であった。そこで、あの、千人風呂という、風呂を作られて、そして、沢山な難儀な病人なんかを、そこに集めて、その、温泉のようなものでしょうね、お湯に入らせて、そして、薬湯を飲ませたり、傷の手当をしてやったりなさるようなものを作られたんですね。いわゆる、そういう慈善事業を起こされたわけです。あるときに、もうそれこそ、鼻を摘みたいような、身体全身から、臭いが出るような、もう、いわゆる、腐れたような状態の人が、助けを求めてやって来たというのである。で、そういう時に、その、皇后様は、その人をね、お風呂へ入れて、綺麗に身体を洗うてやって、足からもう、血膿が流れるような上体の、その人の足に、自分の口をつけて、膿を吸い出してやられたというようなお話がある。ね。ところがその、おー、病人と思っておった、その人の姿が、そのまま観音様であった。いわゆる観音様の化身であった。皇后様の心を試されたのであったというような、お話である。ね。ですから、私共が、そういうような、もう、こ、いや、あげな人とは嫌というような人の向こうに、また、こんな事柄、こんな嫌な事柄といったような、その事柄の向こうにです、必ず神様の、願いというか、神様のおかげは、いわば、隠されているようなものである。ね。そこんところを大事にしていかなければならんというような御理解を頂いて、今日一日、ね。どうにも出来ない自分の感情、自分の心というものを、はー、こういう状態では、自分はよいけれども、外に出ておられる先生が、どういう災難にあわれるようなことがあってはならんと思うて、小倉からわざわざ、自分の心を合楽に向けた。向けさせて頂いたら、汽車の中で、次々と起きてくる、その問題の中からです、もう、とても、それはそれは、有難うて、有難うて、このようなおかげを受けておるという事をです、分からせてもらう。もうとにかく、もう、可笑しいぐらいに、有りがた涙が汽車のなかで流れて仕様がなかったというように、有難うなっておられる。その、有難いというものが、自分の実家である、里に帰らせて頂いてまでも、そこに起きておる問題が、もう、何にも問題がなくなっておる。ほんなこつ、姉ちゃまが言うように、ああいう有難いおかげを頂いておるのに、たった、このくらいの事で、ガタガタ言うてというような事になっておる。ね。有り難いものになってくると、有難いものが、有難いことを呼び、有難いことになって行くおかげが受けられるんです。此の方の道は、喜びで開けた道じゃから、喜びでは苦労はせんと仰るけれども、喜ぼうと思い、また、喜ばねばならんと分かっておっても、自分では、どうにも出来ないような事がある。それは、災難が、自分ではどうにも出来ないように、よける事が出来ないようにです。私共の、そういうような、ね。心をです、思いかえをして行く。心を神様に向けていくという事によってです、ね。そういう、不意の災難でも、よけていけれるようなおかげが受けられる。また、次に、喜びの世界を広めていけれる、働きというようなおかげの頂けれることが、私は信心だというふうに思うのです。ただ、お願いをして、おかげを頂くという事だけではなくて、どうにも出来ない、自分の心、そういう心をです、ね。おういうときに、心を神様に向けるということ。ね。そういう心を神に向ける。信心とは、我が心が神に向かうのを信心というのじゃと仰るように、ね。そういう風に、信心が、生活の上に生き生きとしてくる事が、私は有難いことだと思うのですよね。どうぞ。


中村良一
2005年4月24日